かつて国内で最も急勾配の路線として有名だった旧信越本線 横川-軽井沢間。(通称「横軽」)軽井沢側からその遺構を辿ってみました。

旧軽井沢駅舎

明治21年の信越本線(直江津-軽井沢間)の開通以来、駅舎は何度か修復されましたが、皇族をはじめとする要人が利用する駅として明治43年に大改築されました。旧軽井沢駅舎は明治43年の外観で平成12年に再築保存され記念館となりましたが、平成29年をもって閉館し、現在は2回スペースに「軽井沢鉄道ミニ博物館」として一部資料が保存されています。

旧軽井沢駅舎(道路側より撮影)

ホームの屋根は横川軽井沢間の廃線当時(1997年)そのままの姿で残されています。

旧軽井沢駅舎(ホーム側より撮影)

軽井沢駅の保存車たち

EF63 2号機

横軽専用機のEF63、通称ロクサンです。ロクサンは峠を越える列車の谷側(横川側)に重連で連結され、列車を下から支える補機として活躍しました。この2号機は横川軽井沢間の廃線前、最後の峠越えに使われた機関車です。このロクサンの仲間は、碓氷峠を下った先の「鉄道文化むら」でも保存されており、うち数両は動態保存されています。

ロクサンは峠超えの専用機というだけあり、他の機関車にはなかなか見られない特徴がいくつも存在します。それは、両側の運転台をよく見ると分かります。

両側の顔で大きく異なっている点は、まず連結器の形状です。機関車2両の重連での運用を基本としていたため、機関車同士を連結する側(ここでは左:横川側)は自動連結器のみのシンプルな構造ですが、様々な列車と連結する側(右:長野側)は自動連結器と密着連結器の切り替えが可能な双頭連結器となっています。それに伴い、長野側はジャンパ栓も複数の口が用意されています。詳しくは後述しますが、よく見ると接続する列車の形式名がジャンパ栓の蓋に記載されていました。

連結する列車に合わせて用意されたジャンパ栓

10000型(EC40型)電気機関車

10000型電気機関車は日本で初めて導入された電気機関車で、明治44年(1911年)ドイツAEG社から購入されました。軌道は、当時スイスやドイツの山岳路線で用いられていたアプト式線路を採用しています。アプト式線路とは、ラックレールという歯の付いたレールを置き、機関車の下に取り付けた歯車の噛み合わせて走る方式です。10000型電気機関車に2つの電動機(モーター)が搭載されれいますが、一つは動輪に、もう一つはラックとかみ合う歯車に接続されています。

ラックレール(3枚一組で設置されている)

横川-軽井沢間の路線は蒸気機関車の時代(明治時代)に作られた路線であるため、架線を張ることを前提にトンネルが掘られていません。そのためトンネル断面が小さく(天井が低く)、電化するにも架線を張ることができませんでした。そこで、線路の横に集電用の「第三軌条」を設置し、そこに集電シュー(集電靴)を接触させて電力を得る「第三軌条集電方式」が採用されました。(トンネル区間外では架線集電を行います)

連結器の左右に取り付けられている集電シュー(全4ヵ所)

草軽電鉄デキ12型電気機関車 13号機

横川-軽井沢間の旧信越本線には直接関係はありませんが、こちらも貴重な保存車両のため紹介したいと思います。
旧軽井沢駅を出ると、左手にひっそり小型の鉄道車両が保存されていました。
これは大正初期から昭和37年まで存在していた草軽電鉄の電気機関車です。草軽電鉄は軽井沢~草津温泉間を繋いでおり、明治時代後期になっても交通機関が未発達だった草津温泉や、浅間山麓の高原地への輸送を目的に作られました。機関車は軽量のため、冬場は頻繁に空転を起こしていたそうです。その対策なのか、機関車の両側面には死重と思われるウェイトらしき分厚い板状の部品が取り付けられています。

下の図は当時の路線図です。現在の国道とは全く異なるルートで草津温泉へ至っていることが分かります。

出典:草軽交通株式会社HP(http://www.kkkg.co.jp/museum/gallary.html)

国道18号線(旧道)を下る

イニシャルDの舞台にもなった国道18号線(旧道)を下ります。新道(碓氷バイパス)があるので交通量は多くありませんが、現在でもツーリングや観光目的の通行がそれなりにあります。

碓氷峠

まずは峠越え。
軽井沢駅を出て18号線を進むと、ほんの数分で碓氷峠に至ります。峠は群馬県と長野県の県境で、付近には石碑が建てられていました。江戸から中山道を通って京都に向かおうとすると、碓氷峠ははじめの難所です。鉄道に限らず古より交通の要所でした。そのため「碓氷関所」という中山道の関所が存在しますが、峠ではなく麓(ふもと)の横川駅近くにあります。

碓氷第16,17隧道

旧道を下ってゆくと、道路はところどころ旧線(アプト線)のすぐ傍を通ります。そのため明治時代に作られたトンネルのポータルをじっくり観察することができました。

はじめに停車したのはC126ポイントにある碓氷第16,17隧道のポータルです。 線路は第16隧道を出ると小川を渡り、すぐに17隧道に入ります。そのため二つのポータルが小川を挟んで顔を合わせている、なんとも感慨深い光景を見ることができます。

碓氷第16隧道ポータル(軽井沢側出口)

小川を超えるアーチ橋は全長2mに満たない小さな橋ですが、レンガ・石材を組み合わせて丁寧に作りこまれていることが分かります。

碓氷第17隧道ポータル(横川側出口)と小川を渡る橋梁

ポータルの前に立つと、トンネルからはひんやりとした風が吹き抜け、炎天下の日差しで火照った肌を優しく冷ましてくれました。明治時代には蒸気機関車の汽笛や蒸気を吐きだす音が鳴り響いたこの場所も、今では静寂そのものです。

熊ノ平変電所跡(旧熊ノ平駅)

熊ノ平駅は、明治26年(1893年)に信号所・給水給炭所として設置されました。その後駅に昇格し、昭和12年(1937年)電化される際に熊ノ平変電所が建設されました。
昭和41年(1966年)、再び信号所に降格となりましたが、変電所はアプト式の廃止後も横川軽井沢間の廃線(1997年)まで使用され続け、令和元年(2018年)、国の重要文化財に登録されました。現在は横川駅から旧線を整備して作られた遊歩道「アプトの道」の終点となっており、国道18号線(旧道)へ降りれば、バスで各方面へ移動することができます。

横川側(第10隧道側)から変電所跡を見た様子

乗客にとっては単なる通過点でしかなかったこの場所も、蒸気機関車時代には給水・給炭の基地として、電化後は電力供給の拠点として信越本線を支えてきました。時代によって少しずつ役割を変えながらも、峠越え幹線鉄道に必要不可欠な存在であり続けたのです。

旧熊ノ変電所跡(架線への給電設備)

新旧トンネル

新線と旧線は、ここ熊ノ平で合流します。そのため横川方面を見ると、新旧線の上り/下り線で合計4つのトンネルが並んでいる様子を見ることができます。

新旧のトンネルそれぞれ左側の線路が横川へ向かう列車が通過します。横川へ向かうので物理的には明らかに「下る」のですが、東京に近づくため案内は「上り」となります。逆に右側の線路は軽井沢に向かう路線で、物理的には「上る」のに案内は「下り」です。スマホもない時代に初めて訪れたのなら、きっと混乱した人も少なくなかったのではないでしょうか。

新線第3隧道(旧線第10隧道の横)

旧線の上り線(横川行き)トンネルは遊歩道に整備され、横川駅から歩くことができます。全長5kmのトレッキングコースで、かつて国内最急勾配の線路が敷かれていた道を自らの脚で辿ることができます。

旧線第10隧道 (上り線(横川行)は「アプトの道」として歩道に整備されている)

頑丈な路盤と線路

枕木はポイント付近を除き、ほぼすべてPC枕木※が使われていました。枕木の間隔も狭く、レールは50kgNレールです。関東と信越地方を繋ぐ大動脈路線というだけあり、非常に頑丈な軌道として整備されたことが伺えます。
Prestressed Concrete(プレストレスト コンクリート)の略で、「圧縮力には強いが張力には弱い」というコンクリートの弱点を補うために、あらかじめ圧縮力をかけた状態で硬化させたコンクリート部材を指します。

変電所跡から軽井沢側を見た様子(奥のトンネルは第11隧道(改修され、新線第4隧道となっている))

レール側面を良く見ると、「50N」の文字が確認できました。これは50kgNレール(1mあたり50kgの重さのレール)であることを示しています。50kgNレールは、新幹線用のレールを除けば最も頑丈な種類のレールで、在来幹線で多く用いられています。

「50N」の刻印

ここまで、軽井沢駅から熊ノ平駅までの遺構を辿りました。 「碓氷峠廃線めぐり(2)」では、碓氷第三橋梁(通称「めがね橋」)から横川駅の遺構を追ってみたいと思います。横川機関区跡に作られた「鉄道文化むら」に保存される貴重な車両たちも見どころです。

参考サイト