碓氷第三橋梁(めがね橋)
碓氷峠と言えばコレ!と言っても過言ではない、有名な観光スポットです。通称「めがね橋」ですが、正式には碓氷第三橋梁と言います。その巨大さと美しいディティールから、鉄っちゃんに限らず一般にも広く人気です。私も写真では何度も見たことがありましたが、実物は想像よりもずっと存在感があり大迫力です。
めがね橋は日本で最も大きなレンガ積みアーチ橋です。膨大な量のレンガを使用しており、なんとその数200万個余。そのレンガすべてが組み合わさることでこの橋が成り立っています。
めがね橋の誕生と補強工事
めがね橋は明治24年(1889年)3月に着工されました。日本一の難所であるというだけあり、完成まで長い期間を要したものと思いきや、何と翌年の12月にわずか1年10か月という驚異的な速さで作られました。なぜこのような短期間で完成できたかというと、碓氷線着工時にはすでに現在の国道18号線(旧道)に馬車鉄道が開通しており、資材運搬に利用できたこと、また工事労働者を多く集められたことによると考えられています。
こうして碓氷線は明治26年(1893年)に開通しましたが、その翌年の明治東京地震(明治27年6月)により被災してしまいます。これによりめがね橋も第四アーチ(下記写真で一番左のアーチ)と、第2橋台に亀裂が発生してしまいました。開業直後から変形が報告されていたこともあり、これを機に補強工事が実施されました。結果、アーチ部は開業当時のほぼ倍の厚さとなり、橋脚部も太くなりました。上の写真と見比べると、現在と比較してかなりスリムな外観であったことが分かります。
個性のあるトンネルポータル
旧線のトンネルポータルはデザイン性が非常に高く、外観にもこだわりを持って作られたことが伺えます。とくに道路に面する部分など人目につく場所のポータルは作りこみが繊細です。例えば第5隧道(軽井沢側)と第6隧道(横川側)はめがね橋の両端にあるトンネルポータルですが、それぞれ一種の芸術とも思える外観です。
第5・第6隧道のポータルは石柱(ピラスター)や要石(キーストーン)を有し、手の込んだ構造です。一方、熊ノ平に面している第10隧道ポータルは石柱も要石もなくシンプルな作りとなっています。
材料となるレンガは武州川口煉瓦焼き場(現在の埼玉県川口市)と深谷煉瓦製作所(埼玉県深谷市)から供給され、いずれも横軽に先行して開通していた信越本線沿いから調達しました。石材は加工しやすい安中産の秋間石と呼ばれる溶結凝灰岩が使われています。こちらは地元の材料を活用した形ですね。
廃ラックレールの活用
鉄道を維持するためにはレールの交換が必須で、幹線鉄道であれば交換頻度も高くなります。これはアプト式にも同じことが言えることで、横軽間ではラックレールすらも再利用されてる様子が確認できました。
めがね橋の側壁に並ぶ廃ラックレール
めがね橋の18号線側の側壁には一定間隔で廃ラックレールが刺さっています。これは電線を支えるステーで、横川発電所で作られた6600V 25Hzの三相交流を矢ヶ崎変電所に送るための送電線が通っていたようです。 矢ヶ崎変電所ではこれを直流650Vに整流してED42を動かしていました。
ラックレールをよく見てみると、現役時代どの向きで設置されていたのかが分かりました。
片方向の山だけが潰れています。走行時は常に(この写真では)左側に力がかかっていたので、左側が横川側であったということになります。それにしても鋼鉄製のラックがここまで潰れるとは、列車が坂を上るためにはいかに大きな力が必要であったかが伺えます。
側溝の蓋になった廃ラックレール
峠の釜めし おぎのや本店前の側溝の蓋には廃ラックレールが使われていました。ギザギザしているので、並べてれば確かに隙間ができます。これは賢い活用方法ですね。沿線では、ほかに数か所側溝として再利用されている廃ラックレールがあるようです。
この場所の廃ラックレールは山が相当つぶれており、かなり使い古されたものであることが分かります。
鉄道文化むら
横川機関区の跡地を活用して、貴重な車両たちが多数保存されています。碓氷峠で活躍した車両はもちろん、ほかの地域で運用されていた車両も集められており、さながら鉄道博物館のようです。
アプト式鉄道
ゲートを入ってまず出迎えてくれる展示はアプト式鉄道の路盤模型です。模型といっても、レール類は実際に使用されていたものになります。二本のレールの間にラックレールが設置され、機関車の床下に取り付けられた歯車がかみ合って坂を登っていました。
奥に見えるレールは第三軌条と呼ばれ、機関車に電気を供給するレールです。横軽間の旧線は明治時代に作られたもので、蒸気機関車が通ることしか想定されていなかったことからトンネルの断面が小さかったのです。そのためトンネル区間は電化する際にも架線を張ることができず、機関車は終電シューと呼ばれる終電器具を第三軌条に押し当てて電力を得ていました。
189系-506(横軽対応車)
アプト線路の奥には特急色189系の先頭車がいます。横軽間ではEF63と連結し、協調運転で峠を越えました。
この189系は横軽対応車でシャーシが強化されており、それを示すためナンバーの左側に赤丸の印が施されています。
EF63 10号機
峠のシェルパ、EF63です。鉄道文化むらには8両ものEF63が保存されていますが、そのうち10号機は一部カットモデルとなっており内部の機器を観察することができます。また運転台に立ち入ることもできるため、ズラリと並ぶ計器類や運転席からの視界を観察することができました。
EF63の特徴の一つに「電磁吸着ブレーキ」があります。電磁石を内蔵した金属板を直接レールに吸着させるブレーキで、EF63にのみ搭載されている珍しいブレーキ装置です。走行中にメインのブレーキ機能(発電ブレーキ・空気ブレーキなど)が故障した際でも制動力を維持できるように設けられました。横軽間はその急勾配ゆえ、坂を登り切れない、止まり切れないことを原因とした重大事故が過去に何度も起きています。そんな事故を二度起こさないよう、碓氷越え機関車の集大成として作られたEF63には安全装置が何重にも用意されているのです。
EF63-11,12,24,25号機
一つの施設に同じ形式の車両が8両も保存されているだけで驚きですが、鉄道文化村ではこのうち4両が動態保存車です。いかにEF63が碓氷線にとって重要な存在であり、そして大事にされてきたのかが伝わってきます。
私が訪れた日(2021年7月10日)にはEF63-25(左)とEF63-12(右)が本線出場していました。 奥の12号機は点検後?のせいかピカピカです。とても現役を退いた機関車とは思えません。
これら動態保存車ですが、なんと一般人でも運転することが可能です。ただし、約1日の講習を受講し試験に合格しなければなりません。(受講費用3万円)加えて合格できたとしても。受講当日は運転予約ができないので最低2回は文化むらへ通う必要があります。電気機関車を運転できる体験は日本でここだけなので、時間とお金が許すのであればぜひチャレンジしてみたいですね。
↓ちょうど運転体験と思われる走行を撮影することができました。ちなみに本来の架線電圧は直流1500Vですが、体験用区間は電気代の関係で直流700Vに落としているそうです。
奥に進むと、残り二両の動態保存車が鎮座していました。この日、11号機と24号機はお休みのようです。これらの機関車が停車しているエリアは静態保存車のエリアからは見えるのですが、立ち入ることができません。
このほか、鉄道文化むらには(碓氷峠に関係のない車両を含め)まだまだ多くの貴重な鉄道車両が保存されています。ここでは解説しきれないので、
最後は峠の釜めしで腹ごしらえ
横川を訪れたら、おぎのや「峠の釜めし」は外せません。
素焼きの釜に入った具沢山の釜めしは、年季の入った優しい味でペロッと平らげられてしまいます。碓氷線の現役時代、これから峠を越えようとする列車は横川駅で機関車連結のため5分ほど待たされます。この間に乗客たちは小銭を握りしめ、この店に殺到したそうです。(先輩談)
おぎのやは信越線の開通当時から存在しているそうで、なんと2021年で開業135年になります。横軽が廃線になった今でも、峠の名物であることは変わりません。これからも横川駅のシンボル駅弁であり続けてくれることを期待します。
※ちなみにこの釜、蓋とセットで持ち帰ることができます。ちゃんとご飯を炊くことができ、1合でピッタリです。
まとめ
この日、丸一日をかけて碓氷線の遺構を辿りましたが、すべてを見尽くすには全く時間が足りませんでした。135年という歴史は、たった一日で知り得るほど単純なものではないようです。
それでも、碓氷線はただ「珍しい技術が使われた路線」というだけでなく、後世に残すべき重要な鉄道文化や技術であることは感じることができました。
今回は軽井沢側から車で巡るというプランでしたが、次回は横川から自分の足で「アプトの道」を制覇してみたいと思います。涼しい秋ころなんて、紅葉と相まって美しい光景が見れることでしょう。
これを読んで下さったあなたも、機会があればぜひ訪れ、奥深い碓氷の鉄道史に触れてみてください。