嘉例川駅とは

1903年の開業以来、117年の歴史を持つ嘉例川駅。大隅横川駅と並び、鹿児島県内で最古の駅です。開業100周年を記念し、特急「はやとの風」が停車するようになりました。現在では猫の「にゃん太郎駅長」や、時々メイドさんがお出迎えしてくれる駅としても話題になっていますが、鉄ちゃんの視点で見ると嘉例川駅の魅力は他にも沢山見つけることができました。

嘉例川駅の歴史

肥薩路に 汽笛なるなり 百周年

嘉例川駅と並び、県内最古の駅として有名な大隅横川駅についてもこちらの記事でまとめています↓↓

嘉例川駅の沿革

1903年(明治36年)1月15日 開業

国分駅(現在の早戸駅)-横川駅(現在の大隅横川駅)の開通に伴い、開設されました。妙見温泉の入口駅として栄え、駅員7名が常駐する駅でした。湯治で訪れるお客さんは、自前の布団を鉄道便(鉄道を使った郵便)で嘉例川駅に送り、そこから担ぎ屋(荷物の運び屋)が宿まで運んでいました。

1920年(大正9年)3月30日 皇太子が乗降

高屋山上陵(たかやさんじょうりょう)という古墳を参拝するため、皇太子(後の昭和天皇)が乗降しました。当時は小雨が降る中、4万人以上が駅・沿道に集まったそうです。また、その際に東郷平八郎も同行しました。

1945年頃(昭和20年頃)まで(戦時中)

旧日本軍の海軍国分基地(現在の鹿児島空港)まで物資輸送のための索道が伸びていました。いつ頃撤去になったかは不明です。

~1965年頃(~昭和40年頃)まで 貨物輸送

肥料の積み下ろし(貨物輸送)で栄えました。周辺に広がるシラス大地は十三塚原(じゅうさんづかばる)と呼ばれ、お茶や根菜の栽培が盛んでした。現在でも農業が盛んな地域です。

1984年(昭和59年)無人化

無人化され、常駐する駅員さんは配備されなくなりました。

2004年(平成16年)特急はやとの風の停車駅に決定

元駅員さんらの積極的な広報活動が実り、特急「はやとの風」の停車駅になりました。「特急の停車する無人駅」として、全国的にも珍しい駅となりました。

2006年(平成18年)登録有形文化財に登録

国土の歴史的景観に寄与しているとみとめられ、駅舎が登録有形文化財に登録されました。


駅舎に設置された記念碑
停車中の特急列車「はやとの風」

かつては、国分基地(現在の鹿児島空港)まで索道(ロープウェイ)が伸びていたそうです。国分基地は戦時中の特攻隊が出撃した基地として有名で、ここを飛び立ち特攻隊として亡くなった方は計427名にのぼります。特攻隊に支給された羊かん・お菓子なども、もしかするとこの駅で索道に積みかえられ、輸送されていたのかもしれません。

築117年の駅舎

建てられて一世紀以上が経過した駅舎には、歴史を感じさせるポイントが多数残っています。苔むした瓦屋根、鎧板の外壁、漆喰の壁。すべてが時間の経過を感じさせ、蒸気機関車の汽笛がいまにも聞こえてきそうです。

写っているのは名誉駅長さんで、 日々、駅員としての仕事に加えて嘉例川駅のPRに励んでいます。 この日も訪れた観光客に対し、熱心に解説をしていました。

ホームの屋根を見上げると、碍子(がいし)を使った電気配線が残されていました。現在は繋がれていませんが、この先に電灯が繋がっていたのでしょうか。

百年前に建てられたとは思えないほど、駅舎の骨組みはしっかりしています。トトロに出てきそうな照明も素敵です。

嘉例川駅の営業開始日時が表示されています。営業初日からあるものかは分かりませんが、相当古いことは確かです。
嘉例川駅営業開始 明治三十六年一月十五日 標高百六十七 ・ 三一七メートル。(←ミリ単位まで表示している???)

待合室には振り子時計と年季の入ったベンチが哀愁を漂わせます。ゴミ箱ですらレトロです。

カウンターには駅長にゃん太郎の家が置いてありました。訪れた日は体調がすぐれなかったらしく、駅長は不在でした。

駅舎内に保存されている鉄道設備

この赤い装置はタブレット閉塞器です。先行する列車との衝突を防ぐため、列車はタブレットと呼ばれる通行証を交換することで安全を確保していました。駅員は列車からタブレットを受け取り、このタブレット閉塞器に差し込むことで信号を制御していました。

手回しハンドルの保管場所です。ABCなどではなく「イロハ」でナンバリングされているあたりが時代を感じます。「アイウ」ですらないんですね(笑) 工具の定位置が決まっており、整理整頓が徹底されている点が素晴らしいです。

この手回しハンドルはポイントの切り替えに使っていたともの考えられます。現在ではほとんどのポイントが電気方式、もしくは空気と電気の力を組み合わせた空電方式で切り替えていますが、かつては係員が手動で切り替えていました。駅員さんはポイントの切り替えが必要なタイミングで、ここに保管されていたハンドルを持ってポイントに向かっていたのでしょう。

嘉例川駅ではありませんが、これらの機器が使用されていた時期の「タブレット交換風景」が展示されていました。駅員さんが車掌さんにタブレットを渡している様子が写っています。ちなみに重富駅は、日豊本線の隼人-鹿児島中央の間にある海辺の駅です。

これは保存設備では無いですが・・・

車掌さんが使っている列車の発車時刻を知らせるベルです。年季が入っているようだったので、昔から使われているものかと思いましたが、なんと駅長さんがヤフオクで2000円で落としたものだそうです(笑)

音が澄んでいてお気に入りと仰っていました。

車掌さんがカランカランとベルを鳴らし始めると、お客さんは一斉に列車に引き上げます。間もなく扉は閉まり駅を発ちます。

このような、昔ながらの発車風景を見ることができる、大変貴重な駅です。

ホーム

現在は舗装されており、点字ブロックを設置されています。

ホーム中央部だけ20cmほど高くなっています。低い部分の石積みは恐らく建設当初から使われているものなのでしょうか。対向する島式ホームの淵も、同様に低い石積みとなっています。これは、客車列車時代のホーム高さのままなのでしょう。

枕木は基本的に木製の枕木を使っていますが、ところどころPC枕木に置き換わっています。

中福良駅側からの様子です。二番線の端が見えます。

霧島温泉側から。

2番線ホーム跡

かつて存在した2番線の島式プラットホームが残されています。線路は残っていませんが、石で組まれたホーム跡は健在で、しっかりと形を保っています。ホームは1番線と同様に200m程度あります。10両程度が停車できる規模のホームです。

二番線廃止後もしばらくは行くことができたそうですが、安全確保のためか現在は進入禁止になっています。

貨物用留置線

貨車を一時的においておくため留置線が残っています。かつて、貨物扱いの運用が行われていた形跡です。車止めは確認できず、線路は土砂の中に消えていました。かつては、温泉客の使う布団が積まれた黒貨車が留置されていたのでしょう。

本線から分岐している様子です。二度と車両が入線することがない線路です。

三番線跡?

霧島温泉方面のアングルから撮影すると、島式ホームの裏側に3番線らしき石積みが確認できました。最盛期に1番線・2番線・貨物用の留置線が使われていたことは確かですが、2番線の反対側に3番線が存在していたかは不明です。三番線まで分岐させるには十分な敷地スペースはありそうなので、もしかすると三番線も存在したのかもしれません。

なにやら工事をしていました。駅長に尋ねると、田園風景を車窓から見えるようにするため、 霧島温泉方面側の竹藪を切り開く作業をしているとのことでした。この作業は駅長の指示だそうです。

列車の乗客から田園風景が見えるようになる時間はわずか十数秒であるため、駅長の熱意はすさまじいものです。

隼人側に位置する堂地(どうち)踏切から撮った写真です。二番線の島式ホームの幅が確認できます。島式ホームにしてはかなり広くみえます。

駅周辺の設備

雨量計

築百年のレトロな駅舎の横にそばに、ピカピカのステンレスの筒が筒が設置されています。一見、何なのか分かりませんが、近づいてみると「転倒ます型雨量計」というステッカーが貼られていました。嘉例川駅はJR九州の貴重な観光資源としての役割だけでなく、肥薩線の雨量観測点としても重要な駅です。ここで観測された情報を元に、豪雨の際の列車運行を決定します。少しマニアックですが、これはこれであまり見る機械の少ない装置です。

ちなみに転倒ます型雨量計とは、「ししおどし」のような原理で一定量の水が貯まるとますが倒れて排水され、電気信号のパルスを出力します。この電気パルスが一定時間あたりに何回出力されたかを数えて、雨量を計測する仕組みです。

嘉例川駅前公園

駅前には、きれいに整備された公園があります。春は東屋で休憩しながら、満開の桜越しの列車を眺めることができるでしょう。

公園の入口のすぐそばには公衆トイレがあります。地元の方々が清掃作業をしてくれているおかげで、とてもキレイです。

堂地踏切

駅から霧島温泉方面にある第一種踏切です。なんてことのない踏切ですが、線路上からの視点で駅を観察できました。

霧島温泉側の様子です。線路が山の中に吸い込まれています。

嘉例川駅側です。緩やかにカーブしているのは、かつて存在した二番線に向けて分岐していた名残かもしれません。周辺を散策しましたが、2番線に分岐するポイントの跡は確認できませんでした。